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塙保己一とは何した人?日本に残した功績が大きすぎる無名の偉人

未分類 日本の歴史

腸を整えて人生を楽しもう!

腸もみと食事指導の専門家堀内拓矢です。

 

歴史の教科書には載っていなくても、

私たちの今の暮らしを

裏側から決定づけている偉人がいます。

 

 

江戸時代後期に活躍した国学者

塙保己一も

まさにその一人です。

 

 

 

幼少期に失明し、一時は

「自分は生きていても社会の役に立てない」

と自ら命を絶とうと思うまで

絶望のどん底を味わいました。

 

 

しかし彼はそこから立ち上がり、

現代の国家予算に匹敵するような

巨大プロジェクトを成し遂げました。

 

 

 

さらに彼の遺した仕事は

のちに日本の領土危機を救い

日本初の女性医師をも

誕生させることになったのです。

 

 

 

なぜ目が見えない彼に

それほどの偉業が可能だったのか?

 

 

そして現代人の生活に

どんな影響を与えているのか?

 

 

知れば知るほど鳥肌が立つ

『日本が世界に誇るべき天才』

の正体に迫りますので

楽しみにしていてくださいね。

 

 

参考文献

『すべて世のため、後のために塙保己一とヘレン・ケラー』文:堺正一

目次
1、塙保己一とは何した人?
2、塙保己一が現代に与えた影響や功績

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1、塙保己一とは何した人?

現代の私たちから見れば

超人そのものに見える

塙保己一ですが、

その人生の幕開けは

絶望と挫折の連続でした。

彼が一体どんな人物で何をしたのか?

そのドラマチックな生涯を

3つのステップで紐解いていきましょう。

塙保己一は寅之助や辰之助など

名前を何度も変えていますが

ここでの呼び方は

『保己一』で統一します。

① 7歳での失明と人生のどん底

 

 

江戸時代中期、

現在の埼玉県本庄市の

農家に生まれた保己一は、

7歳のときに重い肝臓の病気にかかり

完全に視力を失ってしまいます

そしてその約4年後には

母親を病気で亡くしてしまうなど

泣きっ面に蜂と言えるような

トラブルが続きました。

母を亡くし生きる希望を失いかけていた時

毎年買い付けに来る絹商人から

「江戸では『太平記』を読み聞かせる

寄席が大層な人気なんだけど、

前にあなたが語った太平記を聞いたら

すごくよかったから、修行すれば

立派にやっていけるんじゃないかな」

と聞いた保己一は

「ちょうど太平記は全部暗記したい

と思っていたところだったから

こんなに自分に向いた仕事は

ないかもしれない」

と、

いても立ってもいられないくらい

わくわくしすぎて

当初江戸へ行くことを

反対していた父親が

最終的に根負けして江戸行きを許可する

レベルの熱意を持っていたそうです。

たった1つの話が

人生を大きく変えるきっかけになったことは

ぼくにもあるので、

この時の保己一の気持ちって

めちゃくちゃよくわかるんですよ。

 

ちなみにこの太平記、

現代の書物に置き換えれば

総ページ数はなんと約2500ページという

長編物語なので

 

これをさらっと全部暗記したい

発言した優秀さはすでにこの時から

かいまみえていますよね笑

 

 

そこで15歳で例の絹商人の手引きで

江戸に渡ってからは

鍼治療で評判の雨富須賀一(あめとみすがいち)検校

弟子入りして生計を立てていくことにしました。

この当時の全盲の方々は

当道座という幕府公認の自治組織で

鍼、あんま、琴、三味線、琵琶などの

職業訓練を受けて

経済的な自立をすることが普通でした。

なのでその慣例に従ってみたものの、

太平記を読みたい

もっと言えばそれを経て

学問の道に進みたい

と考えていた保己一には

これらの修行には全然身が入らず

一向に技術は上達しなかったそうです。

そんな状態でしたので

当然ながら他の弟子たちからは

煙たがられしまっていたのですが、

この上にまたしても大きな試練

立ちはだかるのでした。

ある時保己一は兄弟子から

借金の取り立て人をやれと

遣わされてしまいます。

実はこの当時、

あんまなど全盲の人がやる仕事は

収入が少なくて、

 

生活保障のためお金を

幕府が高利で貸し付けていたため、

結果的に金儲けに走る全盲の方が

多くなっていることが社会問題

になっていました。

ただこれは

気の優しい保己一にとっては

全く向いていない仕事でしたので、

案の定取り立てには失敗し

兄弟子にも怒られてしまいます。

このままでは

学問の修行ができなさそうだし、

田舎に逃げ帰っても

送り出してくれた村の人に

合わせる顔がない

と感じていた保己一は

母の後を追うことも考えていたそうです。

まぁ無理はないですよね。

やりたい学問の道に進めるからこそ

ワクワクと期待に胸を膨らませていたのに、

実際には学問ができないばかりか

国の制度の問題で

全く向いてなくてやりたくない仕事を

させられ続けられてしまって

いるわけですから。

しかしある時、

足を滑らせ堀に落ちて

水でもがいていたところに

普段に身に付けていた

母の形見である巾着袋に手が触れたことで

「こんなところで死んではダメ!

”一寸先は光”と教えたんだから

生きなさい!」

と母の声がハッキリと

聞こえたそうです。

その後師匠である雨富検校に

学問のためならどんな苦労にも耐えられるから

学問がしたいと直談判したところ、

「お前からは才能を感じないが

前にわしが医学書を講じた時の

お前の理解力と記憶力、集中力には感心した。

学問がしたいならやってみるがいい。

生活費の面倒はわしがみる。

ただし、

3年経っても成果が上がらなければ

実家に返すぞ」

と言ってもらえたことで

あんまをしながら

学業の修行に励むのでした。

 

 

②人生の転機

 

 

保己一の学習スタイルは

目が見えないので

本を誰かに読んでもらって

それを聞いて覚えるというもので、

 

お金がなかった保己一には

本を読んでもらったお礼を

あんまでお返しをするために

あんまの修行に励みました。

 

 

それが功を奏して

『あんまの保己一』と呼ばれるくらいの

評判がつくほど腕が上達しただけでなく、

 

学問にはお金がかかるだろうと

普段の倍のお金を支払ってくれたり、

熱心な気持ちから

貴重な本を何十冊もプレゼントしてくれる

お客さんも出てくるようになったのです。

 

 

このことから保己一は

決してあんまの才能がなかったわけではなく

情熱を傾けることができなかったがゆえに

腕が上達しなかったのでしょうね。

 

そして情熱さえ込められれば

お父さんやお客さんなど

多くの人の心を動かしてしまうほどの

芯の強さを感じさせることが

保己一の魅力だったのかもしれません。

 

 

そんなある時、

いつものように本を風呂敷に入れて

あんまにでかける保己一の姿を

気にかけていたのが

松平乗尹(まつだいらのりただ)という

旗本(上級武士)でした。

 

 

乗尹は師匠である雨富から

保己一の事情を聞いて

 

「そんなに書物が好きなら

読んであげてもいいぞ」

 

と声をかけてもらい

定期的に乗尹の屋敷に出かけて

1時間も本を読んでもらえる

ことになったのです。

 

これだけでも十分すごいことなのですが

さらにすごいことが起こります。

 

なんとその屋敷では

月に一度古典を研究している

江戸でも指折りの学者

荻原宗固先生を呼んでいて、

 

源氏物語や和歌などの講義をしているから

保己一も一緒に講義を受けてみないかと

誘われたのですね。

 

 

こうして間もなく

保己一は荻原宗固先生の門下生として

直接指導を受けるようになったのです。

 

 

それから8年、

荻原宗固先生は

 

「もう私の持てる全てを教えたから

古典研究では右に出る者がいない

賀茂真淵先生の元で学問を学ぶといい」

 

と勧められ、

真淵先生の塾に入門することになりました。

 

 

真淵先生はその半年後に

亡くなってしまいましたが、

このわずかな間で保己一は

 

『物事の判断は

有名であるとか評判などではなく

自分でよく考え

自分で判断しなければ

学問は大成しない』

 

という大きな学びを

得ることができたのです。

 

 

そこからの保己一の姿勢は

群書類従の編集

和楽講談所の運営など

様々な場所で貫かれていました。

 

 

ここまでで

塙保己一は天才であり努力家でもある

かなりすごい人だということは

伝わったかと思いますが、

 

彼が実際にこの現代に

どんな影響を与えていていて

どんな功績を残したのか

ご紹介しますね。

 

 

それを知ると

現代社会の学問や社会に

かなり大きな影響を与えている

レベルの偉業を成し遂げている

にも関わらず

 

なぜこんなにも無名なのか

と驚かれるかと思いますよ。

2、塙保己一が現代に与えた影響や功績

 

①群書類従の編集

 

保己一の数ある偉業の中でも

最も大きなものこそが

群書類従の編集です。

 

 

群書類従とは

 

古代から江戸の初期までの

1000年以上もの間に

多くの人たちが書き記した

 

1273種の文献や書物を

法律や政治、経済や学問など

25のジャンルに分けて

530巻666冊に仕立てた大文献集

のことです。

 

 

火事や戦乱、経年劣化によって、

日本の貴重な歴史書や文学作品が

消滅してしまうことで

日本の文化の消失

危惧した保己一は

 

34歳から群書類従の編纂に

取り掛かり、

内容に間違いがないか徹底的に校正し

40年の歳月を経て完成させました。

 

 

 

これは日本の文化を研究するためには

欠かせない生きた資料とまで言われていて、

 

ぼくたちが当たり前のように知っている

習ってきた日本の歴史は

この群書類従がなければ

学べなかったことと考えると

 

現代にかなり大きな影響を

残していますよね。

 

 

これがなければ

大河ドラマも作れませんし、

有名人たちの裏話も

知りようがありませんでしたし、

 

大地震や津波、火山噴火などの

被害状況や気候変動などから

防災研究も進みにくかったので

 

間接的な人命救助まで行っている

とんでもなくすごい資料集なのですよ。

 

 

②日本初の女性医師を誕生させた

 

明治時代、

日本初の公認女性医師

として誕生したのが

荻野吟子(おぎのぎんこ)さんです。

 

 

 

荻野さんは夫から移された

淋病の治療の際に

男性医師から屈辱的な内診

受けたことがきっかけで

 

 

女性が安心して

治療を受けられるためには

女性医師がいると感じて

医師を目指すようになりました。

 

 

 

そこで、荻野さんは

医師になることを反対し続けてきた

兄弟たちを押し切って

 

 

並々ならぬ努力を重ねて

医師になるには十分な学力を

身につけることができていたのに

 

 

当時の日本の医学校は

女人禁制だったため

普通に学校を受験することが

できませんでした

 

 

 

様々な努力と硬い意志もあり

なんとか学校には入れたものの

今度は医師としての開業試験を

女性という理由で

受けさせてもらえなかったのですね。

 

 

 

ここで活躍したのが

保己一が遺した古代法律の解説書

『令義解(りょうのぎげ)』です。

 

 

これには日本には以前女医らしい者が

いた記載があったこと、

 

 

そして

女性が医師になってはいけない

という条文がないこと、

 

 

十分な学力があることや

荻野さんとその支援者の熱意などから

 

 

開業試験を受けることが許可され

晴れて医師として働くことが

できるようになりました。

 

 

 

荻野さんは保己一と

たくさんの努力を重ねたこと

やりたいことを諦めない

強い意思があったこと

が共通しているなと思ったので、

 

もしかしたら

どこかからか保己一が荻野さんを

応援してくれたのかもしれませんね。

 

 

③ヘレンケラーの心の支えになっていた

 

ヘレンケラーと言えば

目と耳と言葉が不自由という

三重苦を負いながらも

 

障害者救済のために

精力的に活動を経て

アメリカで最大名誉となる自由勲章を

大統領から授かった活動家です。

 

 

その活動は日本にも及んでいて

来日した際に日本各地で

障害者施策や社会参加の

必要性を唱えたことで

 

国民の熱意が国会やGHQを動かして

最終的に身体障害者福祉法が

可決されるほどの影響を与えたのですね。

 

 

今でこそその素晴らしい活躍が

有名ですがその道のりは決して

楽ではありませんでした。

 

 

日中戦争が開戦して

それがやがて太平洋戦争に発展していく中で

ヘレンケラーがアメリカで

戦争反対の声を上げると

 

それまで支持していた国民達は

一斉に手のひらを返して

ヘレンケラーを非国民扱いしました。

 

 

そのため支援者や支援金が途絶え

生活に苦しむことになったため、

 

生活費を稼ぐために文字を使って

見世物のステージに立ち

平和への想いを訴え続けました。

 

 

そんな彼女の

卑下もせず驕りもせず

ありのままの笑顔で振る舞う姿

観客は心を動かされたことから

 

多くの人の心に

親しみと敬意が生まれたのだと思います。

 

 

そんなヘレンケラーは

 

「挫折しそうになるたびに

塙保己一先生を思い出して

立ち直ってきた。

そして今の私がいるのです」

 

と語っています。

 

 

なんとヘレンケラーは

幼少期に母親から

日本にいた塙保己一という

努力して立派になった

盲目の学者のことを

ずっと聞かされて育ってきたそうで、

 

来日した際には

 

『人生の目標である

保己一先生の故郷

埼玉に訪問する』

 

という願いを叶えています。

 

 

そう考えると保己一は

日本だけでなく

アメリカの平和活動の一端をも

間接的に支えていたと言えますね。

 

 

死後、時代も国も超えて

人の心の支えになっていると考えると

 

せめてぼく達日本人は

保己一のことをちゃんと

知っておいた方がいいよな

とは思いますね。

 

 

④小笠原諸島の領土化

 

小笠原諸島は東京都小笠原村として、

日本の領土となっています。

 

ただ、塙保己一がいなければ

この小笠原諸島が

日本の領土ではなくなっていた

かもしれなかったのです。

 

 

といいますのも、

小笠原諸島の最初の定住者は

日本人ではなかったことなどもあり

 

1861年

アメリカ、イギリス、ロシア

などとの間に

小笠原諸島の帰属問題

持ち上がりました。

 

 

そこで幕府は

保己一が作った教育機関である

和学講談所の後継者

保己一の息子・次郎に、

小笠原諸島に関する質問状を送りました。

 

 

次郎は小笠原諸島が

日本の領土であることを証明する

歴史資料を即座に提供したことで

 

小笠原諸島が日本の領土であることが

国際的に認められました。

 

 

もしこの時、十分な資料がなく

小笠原諸島が日本の領土だと

認められなかったとしたら

 

日本は国土の約1/3の大きさ

相当する広さの海を失っており

 

漁場の損失だけでなく

レアメタルなどの鉱物資源の採掘権も

海外に取られて

経済的に大きな打撃を

受けていたと思います。

 

 

さらに2011年に

世界自然遺産に登録されるくらいの

固有種の宝庫なのが

小笠原諸島ですが、

 

もし他国の領土だったとたら

その未来も変わってしまっていた

かもしれません。

 

 

他にもまだまだ功績はありますが、

こうしてみると塙保己一が

現在に与えている影響は

とてつもなく大きいとわかりますよね。

 

 

この記事を通して

日本にはそんな偉人がいたこと、

 

そして

熱意や諦めない姿勢が

人の心を動かして

運命すらも変える力があると

思ってもらえたら

ぼくはとっても嬉しいです。

 

 

 

最後までご覧いただきありがとうございます!

これからも楽しみにしていただけると

嬉しいです♪

 

 

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